生活の中で社会を意識することは少ない、そう冒頭に書かれている。「社会を意識する」とは、つまりはどういうことだろうか。この問いが出てくるということそのものが、まさに「社会を意識していない」ということになるのだろうか。思考の循環とは、いつも鋭い問いから発生するものだ。
規範を無意識のうちに受け入れているのが、理由の一つらしい。多くの規範で成り立っているのが社会で、我々はその規範に気付かぬうちに従っている。それでは、そうした規範というのはどういった内容で、どれくらいの数が存在しているのだろうか。しかし、無意識のうちに受け入れているとは、人のその柔軟性には驚かされる。
そうした規範というのは、時代という時間軸、地理的な空間軸により千差万別であろう。さらには自身だけが有する規範というものもあり、そこに含まれる内容はまさに無限。従わぬ時、一歩間違えれば死ぬことだってあっただろう。しかし、そのような無限の「社会的なルール」に、人類は常に対応することで生存してきたのだ。
人々が従っているとされる「ルール」だが、これはこの言葉が相応しいのだろうか。では「モラル」はどのように作用するのか。言葉が違えば概念もその作用も違う。人々は、我々は、ルールに従っているのか、モラルを遵守しているのか、はたまたそうした言葉とは異なる何かがそうさせているのか。
社会的な期待に応える行為の例として、接客業では笑顔を絶やさない必要がある旨が記されている。生成AIがこのような例を挙げてくることに苦笑いをしつつ、やはり接客業はとてつもなく苦しい業種なんだなと認識させられる。自然と笑顔が浮かぶようならいい。しかしそうでないのに笑顔でいるというのは、それは笑顔ではない。
日本での文化的・社会的背景として「建前」と「本音」の区別が重要とのこと。この「建前」と「本音」という言葉を目にすると、マキャヴェリの君主論を思い起こす。山口周によると君主論が時代を経ても重用されているのは、「建前」と「本音」のうち「本音」をこれほどまでアケスケに書いているのが理由だ、とレビューしていた。
しかしその君主論も、多様性が幅を利かせている2026年の民衆間では、その効用は著しく下がるのではないだろうか。話を少し戻すが、「建前」と「本音」の区別が重要なのではなく、「建前」そのものの内容を如何に取り繕うかに、もはや全てがかかっているという場面も少なくない。これを強く否定できる人はいるだろうか。
日常に目を向けると、日々の生活は多くの反復される行動で構成されており、その行動を人は無意識化する、とのことだ。これは「ルーティン化」の心理によるとのことだが、疑問に思うのは、ルーティン化しているから行動に移すのか、行動に移すからルーティン化されるのか。そこにはどういった心理的作用があるのだろう。
最後に、現代では感情の制約と抑圧が一般的であるから、例えば職場では感情を制御することが求められるとのこと。私見だが、「上手」に制御する程度では間に合わないケースが多くなってきたため、「完全」に制御することが求められている。しかし、完全に何かを実行できる能力なんてものは、人類には備わりはしない。