「『私』とは何者なのか──人間はどのように自己を認識するのか」を読んで

日々の生活、とりわけここ数日間の日常を、意識的に改めて振り返ってみる。1日を通して、鏡を見たと確実に認識できる瞬間があったろうか。意識的にはもちろん、無意識的にすら、鏡というものと接していない。この事実を通して、自身は日々、自己というものを認識する、あるいは認識しようとしている機会に、乏しいことに気づいた。

自己認知とは「周囲との関係性を認識する能力のことである」「他人とのコミュニケーションや社会的な調整において重要な役割を果たす」とあるが、逆説的に考えれば、そうした必要性に迫られていないからこそ、自己を認識しようとしていないのかもしれない。

周囲との関係性、他人とのコミュニケーション、社会的な調整。こうしたワードに在するであろう日々の行いとしては、せいぜいが業務委託契約を結んでいる企業担当者とのやりとり(しかもメールが9割)、そして買い物に行くスーパーのレジ担当者との一言二言のやりとりのみ。これを周囲との関係と呼んでいいのなら。

ふと考える。十数年まえの自己は、今のこうした状況を強く望んでいた。つまりは人との関わりは必要最低限で、他者あるいは事象も含めて、そうしたものから自己への影響が微塵も発生することのない日々を送りたい、と。そう望んだからかはわからないが、確かにそうした期間が幾度か、計数年間は存在したと振り返ることができる。

そして今。これでいいのかと、考えてしまう。ストレスはほとんどない。負担もなければ負荷もない。厳密に言えば「ない」というのは「ゼロ」「皆無」ということではなく、「極最小」という言葉が該当し、それを実現している(してしまっている)ことこそが、自己の認識が故にでもある。これでいいはずがない。

教育現場における学生たちは、早期から自己理解が求められているのだそうだ。それは、学生たち自身が望もうと望ままいと、社会がそうさせているのではないか。そうしたことに随分と若い頃から必要に迫られるというのは、気付かぬうちの負担となってしまわないだろうか。いつだって、ワリを食うのは若い世代たちだ。

なんとここでも、ソーシャルメディアという言葉が出現する。他者との比較が必然的な在り方で、自己が発信していることが本当に発信したいことなのか、それが自身の理想像なのかすら、判断に覚束ない。そして一旦、理想の自己像を認識してしまい、そこに乖離が発生してしまっていたなら、たちまち自己の崩壊にまで繋がってしまう。

自己の理解は心的健康的な生活にも直接影響を与える、らしい。なぜなら、自己認識能力が高ければ、感情や欲望を把握することで問題解決が容易になるから、だという。それがより高い幸福感に繋がる、と。しかしそれは、感情や思考が幸福感側へ進んだ場合であって、把握した感情や欲望とは逆に進んでしまった場合は、ギャップが発生する。

そのギャップに、人は悩み苦悩し、打ちのめされるのではないだろうか。そして一度そうした負の感情や事物に巻き込まれてしまえば、そこから這い上がることが困難となる。月日が経っても、這い上がれたかどうかすらを認識できず、言いようのない渦に身を置いたかのような認識のままで、日々を生きることになるのだ。

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